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子供たちに伝えたいこと

鶴ヶ島西中学校の生徒さんの前で喋ったときの原稿より

02年 8月23日 更新

岡村のぶえ 

 私は鶴ヶ島の五味が谷に住んでおります岡村のぶえと言います。

 家族は6人家族です。今、私の自分で出来ることは家族の作ってくれた車椅子(木の座椅子に車を付けたもの)で手を使って狭い家の中をいざるようにゆっくり動くことと、腕と指が少し不自由ですが動くことです。首より上はまぁまぁ普通に動くので、話しをしたり、スプーンやフォークで食べたりすることは出来ます。他は人の手を借りないと何も出来ません。そんな私の病気の名は少し難しい長い名前なのですが、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)と言います。医学的な名前の頭文字をとって簡単にALSと呼びます。

 今日は自分の病気の話をさせてもらいます。この病気は今、皆さんが知っている人では、イギリスの宇宙学者のホーキンス博士と言う人が同じ病気です。10万人に3〜4人の割で発生します。50〜60歳位のどちらかというと男の人に多い病気です。

 頭からの運動神経の指令が体の末端から行き届かなくなる病気です。行き届かなくなるとどうなるかと言うと、心が思っても体が言うことを聞いてくれなくなるのです。でもマヒするのは動く機能だけ。他の痛い、痒い、と、考える心は、何ともないのがこの病気の特徴です。金縛りに会っているようだと言った人もいます。

 私は他人によく子供だけでなく自分の体もいうことを聞いてくれなくなってしまったなどと、冗談を言います。体のほとんどの部分が、早い人で1年、遅い人は10数年、平均2〜3年で動かなくなります。致命的なことは呼吸筋が動かなくなって、酸素が肺に取り込めなくなり死ぬことです。誰でも人は、生まれれば必ず何時かは死ぬのは理屈では解っているのですが、今、長寿社会ですので、50〜60歳でもまだまだ若いとか、先のことだ、そんなふうに思って、考えようともしないのが普通です。誰しも死ぬのはイヤですから考えようとしません。

 私も80歳近くになれば自然に死を受け入れるようになると思っていました。真剣に考えたらおかしくなる、不安神経症で安定剤を何年も飲んだこともある私です。考えたくもない!!自分の死を実際にすぐそこに感じなければならなくなった時、どんな状態になってしまうのだろうか。なかなか、そのようなことは実感出きるものではありません。

 そんな私が感じたことを聞いて欲しいと思います。実感として考えるのとお医者さんから言い渡されるのとは、大きな違いがあります。第一、迫力が違います。先生に平均2〜3年の内に呼吸が出来なくなると言われたら3年の計算をしましたし、どんなことにでも心はうつろでした。胸には何時も重いものがぶら下がっていましたし、何も知らない人に会って話をしていても、顔がひきつっているのが自分でもわかりました。そんな日が続きました。

 どの本を読んでも、インターネットで調べても、お医者さんから言い渡された病名は間違いはなさそうです。期限を切られた命をどう過ごすことがベストなのか。泣いて過ごすか、今までどおり、普通に変わりなく過ごすか、お金のある限り旅行に行ったり、楽しい事を追いかけて過ごすか、考えました。そして、果たして自分には何が大切なのか悶々と考える毎日でした。

 お墓の購入を考え、お葬式の段取りも自分なりの形を考えました。そして、身の周りの整理に取りかかりました。本当に必要な物だけ残し処分して、写真は懐かしみながら整理をしました。楽しい写真ばかりです。知らず知らずに涙が出てきます。そのうち不思議なことにだんだん元気が出てきたのです。

 良い生き方して来ているじゃないか、「私の人生まんざらじゃない」って、自分の生き方に満足して自分を誉めていたのです。これからも今までどおりで良いと吹っ切れました。1年、365日が3回、1日を1週間、10日として考え、密度の濃い毎日を後悔しないで過ごそう。そして、せっかく、珍しい病気になったことを、生きる期限を切られていることを、皆さんに知ってもらって、何か感じて貰えたらそれこそ生きる意義があるというもの。私の生き様や、心のうつろいを話したり、詩にして行こうと思っています。

 今でも時々、辛くなることがあります。10年前に亡くなった、子煩悩だった母が居たら「つらいつらい」と愚痴が聞いて貰えるのにと、60才の私は思うのです。でも落ち着いてくると、私の苦しみを聞いた母は、私よりもっと苦しみ、悲しむことだろうと思うと、やはりこれは私が受けとめて行くことと改めて考えるのです。

 私には幸せにも家族や、親しい友人が支えてくれています。一人で移動は出来ませんけど生きがいを持って毎日、季節の花や遠くの山々を眺め、自然を楽しませてもらっています。もうテレビでしか見られないと思っていたのに。皆さんのお陰で幸せに暮らしています。人は人の中で生かされるとは本当ですね。人という字のとおりを実感しているこの頃です。

 それから、私が辛く長く悩んだ命の期限がひとつだけ永らえる方法がありました。それは完全に機械によって生きることが出来るということです。呼吸器を付けて喉につまる、たんを機械で誰かに取ってもらい、下(排泄)の世話を頼み、体の向きを1日何度となく変えてもらえれば生きることが出来るのです。

 しかし、1度、呼吸器を付ければ日本では抜くことは犯罪となり抜いた人は罰せられます。それに呼吸と痰を取る機械での仕事以外のことは、誰かが、1日24時間世話をして貰わなければければならないのです。

 仮に家族が世話をしていたとしても、疲れたり具合が悪くなったとき、少し入院するといったことがままならないのです。良くなって退院できるわけでもないので病院が預かってくれないのです。その方法を取りたくても、家族が少なくて世話をする人が居ないとか、子供が自分の生活を大切にして欲しいので世話になりたくないとか、子供も赤ちゃんが居て面倒を見てもらえないとか、それぞれ色々都合があります。

 ずっと病院に居たいという声も聞きます。家族の都合の良いときに会うことが一番良いのですが、今、この病気で長く入院できる病院は埼玉県では3ヶ所だけです。東京はあんなに多くの大病院がありながら長期入院できるのは埼玉県より少ないのが現状です。生きたいのなら家庭でというのが現状です。

 私は臆病ですので、死にたくないのですが、家族に非常な負担を掛けるために辛いのです。「ベッドの上に転がっているだけだよ。それでも生きていたいの」と言った病院の先生。私の老後の楽しい計画を取り上げた誰かさん。私は文字盤やパソコンを使い何か役に立つことを生きがいに、これからの人生を使って行きたいと思っています。でも、それで全部、他人に世話になって生きることが許されるでしょうか。少しずつ出来なくなることが増えて来て不安な中、心に投げかけている毎日です。

 ・・・と、こんなことを思っているのは確かですが、人に話したり、書いたりした後、時々、自己嫌悪におそわれます。偽善者だとか二重人格とか本音と建前がありすぎるとか、その内、進行してくると、ここに書いてあるのとは全然違う気持ちになるかもしれない…とかも思うわけです。ですので、あまり読んで欲しくないという気持ちがあります。

 生きて行く方策として選んだ道かもしれません。今、自分では解からないのですが、どうなんでしょうね。もしそんなに変わってしまったら、それが私の本音だったんだと笑ってください。

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