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1992年3月4日

Write by Mt.Buchi

2001/08/16 更新

(湾岸戦争90億$支出違憲訴訟東京地裁101号法廷にて)



 私は、パソコン通信のネットワーク、「マスターネット」に参加していますが、「湾岸戦争」を議題としたフォーラムにおいて、地上戦を前にした在日米軍パイロットから、「私は、人を殺すのは嫌だが、戦争を早く終わらせるためにこの戦争に参加している。戦争に反対なら、その税金を払わない、それだけの行動を起こす勇気が有るか?」といった発言がありました。私は、「裁判に訴える気持ちの用意はある」と応えたものです。彼は、彼の考える最良の方法として、戦争への参加を選択しました。私は、「戦争の選択ではなく、平和の選択を」と呼びかけ、「避難民救援機チャーター運動」の輪に加わりました。

 ところが、政府は、私たちがチャーターした救援機の提供を拒否したのです。ミサイルが飛んでくる心配のない民間機であったにもかかわらずです。政府にとっては、「避難民救援」は名目で、日の丸をつけた自衛隊機を戦場に向わせることが目的だったのは、これによっても明らかです。私は、その延長線上に「政府の行為によって」「戦争の惨禍がおこ」った、いつか来た道を考えずにはおれません。

 平和の対岸には暴力があります。問題が起こったときに、てっとり早い解決は暴力でした。でも、暴力で黙らせたら、問題は解決するでしょうか。表面的には、ことが片付いても、歴史の中に沈殿して、次の暴力の温床となるだけです。戦争は「最大の暴力」です。そして、科学の「発達」は、「暴力手段」をも「発達」させ、今では、文明を、地球そのものを、破壊し得る力となっています。それを含めて「実力」という人がいるかもしれません。でも、「実力」を持たない、持てない、そして、それに巻きこまれるだけの、子どもたちはどうすればいいのでしょう。

 では、人間にとって暴力は不可避でしょうか。弓矢の時代には難しかったかもしれません。でも、人間は、少しずつでも学んでいます。暴力だけでなく、話し合うことができるようになりました。短期的には、何時の時代でも暴力が横行しているように見えますし、過ちは何度となく繰返されています。けれど、人類の歴史を振返ると、確実に暴力だけではなくなっています。人類にとっての理性の方向がどちらにあるかといえば、やはり、暴力ではなく平和に向かっていると確信します。

 この国に、戦争をしたい人や、民主主義が嫌いな人がいるのは事実です。民主主義は、そういった人々の存在をも受け入れます。ただ、戦争をしたいなら、戦争のための力を備えたいなら、きちんとした手続きをとるべきです。勝手に土俵を広げたり、ルールブックの解釈を変えたりするような、姑息なことがまかり通るようでは、私たちは何を信頼すればいいのでしょうか。スポーツにルールがあるように、私たちが暮している社会の基礎となるルールが憲法です。憲法制定時とは状況が変ったとか、法律に書いてないから、などと言い出したら切りがありません。

 憲法をないがしろにすることは、政治全般のモラルの低下にとどまりません。それを見詰める、未来の主権者である子どもたちの瞳を曇らせるものです。「憲法という偉そうな決りを持ってはいるけど、全然守らなくても平気な国」という、大人たちへの不信の目は、民主主義への不信感につながり、そして、その子どもたちが、次の世代を育てる大人になっていくのです。「みんなで決めたみんなの決り、みんなで守ろう!」ということを、子どもたちに教えたのは、私たち大人なのですから。

 私には、もうすぐ8才になる娘がいます。彼女に対して、どうすれば、「戦争の真実」や「平和への想い」「憎しみではなく、人を愛すること」を伝えることが出来るのか。それは、私の現在の課題でもあります。子どもたちに、法は、真実の、正義の味方なのだとお示しください。

 「地球を大切にしよう、これは、親からもらったものではなく、子どもたちから借りているものだから」というケニアのことわざがあります。明日の地球は、子どもたちのものです。今の大人にも解決が困難な「戦争」という重荷を、子どもたちの明日に背負わせることのないために、「世界中に『平和憲法』を!」。そして、人類が「平和」に向かって記した第一歩である、「日本国憲法」が大切にされることを願っています。

    1992年3月4日 38回目の誕生日に


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