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あるボランティア論

Write by Mt.Buchi

2001/10/15 更新

(坂戸でパソボラを紹介したとき省略した“予定”原稿より)



  坂戸市ボランティア連絡会が「パソコン教室」を計画するにあたって坂戸市社会福祉協議会発行の「ボランティアだより」にて「パソコンボランティア」を募集したわけですが、その席で、いわゆるパソコンボランティアとはどういうものかを紹介させてもらったとき用意しておいた原稿・・・から抜粋したものが以下です。

 最初に「坂戸パソボラWeb」に載っている「パソボラのこと くわしく紹介」をお読みいただければと思いますが、次の部分まで読んだらチョットここに戻ってきて、それからまた向こうのほうを読むのが今週のオススメだったりします(ちなみに、来週もそーです(笑))

【2】ボランティア活動を始めるための基礎知識
 1.ボランティアの意味

 これまた「意味」論となると議論百出モノですが、でも、本来的な「ボランティアの意味」を知っておくのも悪いことではありませんので、6月に読んだ本の中からの紹介しますが、コメントはちょっとにします。こういう理解もあるんだぞ…という程度でいいですから、耳を傾けていただけると。

・・・とか何とか喋ったんだと思うでしょう。ところがドッコイ、今回の話の中では、この部分は割愛なんですね。思っていることをハッキリ言うのはいいんですが、あまりにも多くのことを語られたり示されたりすると、消化しきれないと思うんです。ですから、以下、しばらくは何時かこんなことも語り合いたいなぁという、未来に向けての予定稿です。

 酒井道雄編『神戸発 阪神大震災以後』(岩波新書397)の中の「市民社会とボランティア」と題した文章の中で、草地賢一氏は次のような文章を引いてボランティアのそもそのも説明します。

 ボランティアを支えるボランタリズムとは元来国教として税金で維持される宗教制度から分離して、信者が自らの献金で宗教を支える意志を表現する宗教的用語である。教会と国家の関係において国家の優越性を認めず、また国家から教会に対する援助を拒否し、教会は教会員によってのみ維持されるべきであるとの主張である。すなわちボランタリズムはプロテスタント教会の原理だといってよいだろう。

 ボランタリズムの思想を確立したプロテスタントは「ディッセントの伝統」に根ざしていた。ディッセントとは宗教上の権威、伝統、形式、特権に対して、「異議を申し立てる」ことにほかならない。この伝統が労働組合・協同組合・セツルメントや社会事業の働きを発達させたボランタリー・アソシエーション(任意団体)を形成することになり、ここからボランティアの活動が展開されたのである。

阿部志郎共著「日本人と隣人」
日本YMCA同盟出版部1981年

 確かに、お上のやることへの「異議申し立て」ではありますね。お上(行政ですな)がちゃんとやっていないモンだから「異議申し立て」せざるを得なくなる。何も好き好んで手出し口出ししてるんじゃないんだよね。

 それに続いて、震災ボランティアたちに贈る言葉。

 今回の阪神大震災に参加したボランティアは、この激しい災害を「わがこと」として関わった人びとであった。しかし、その多くは、三月を境にそれぞれのコミュニティーに帰っていった。この人びとは、神戸そのほかの被災地から、何をみずからのコミュニティーに持ち帰るのであろうか。

 アジア・アフリカなど「南」の国々の草の根の人びとが、しばしば私たちに問いかけるメッセージを、神戸に残る私は、帰っていった人びとに贈りたい。

 自分のコミュニティーのなかに、市民参画型、市民提言型の草の根民主主義を拡大してほしい。そのためにはボランティアが、チャリティー(慈善)にとどまることなく、ジャスティス(公正)の実現のためになってほしい。コミュニティー形成、つまり市民社会の創造や開発を、ボランタリズム(異議申し立て、主権在民)をベースに実現していくことを、ともに実践したい。

 しかし、この実践は体制である政府や行政を、批判対象として告発や対決することのみで展開されるべきではない。ともすれば体制は、ボランティアをみずからの補完として位置づける傾向をもっている。したがってボランタリズムにもとづいて、体制(公)とボランティア(私)をきちんと分離しつつ、対等に対応することを忘れるべきではない。

 と同時に、その公私分離を踏まえて役割を分担し、“協働”が行なわれることが望ましい。

 つまりです。この世の中、誰もが困難を抱えているワケではなくて、富が偏在しているように困難だって偏在しているということです。阪神大震災のとき「資本主義国では個人の被災は個人持ち」と公的援助を拒否した大蔵大臣が、同時期、住専の尻ぬぐいには数千億円をポンと出しました。今また財源を理由として個々に振り分ければ僅かでしかない福祉予算を削る一方、銀行という営利を目的とした私企業への莫大な資金援助が続けられています。これは税金の使い方のダブル・スタンダード(二重基準)です。個々の現場でのボランティアたちの、身銭を切った献身的努力を嘲笑うものです。自分たちが払った税金が使ってほしいことには使われず使ってほしくないところに注ぎ込まれる。ボランティアに取り組む中で、何時かはこの矛盾に突き当たると思います。

 今、私たちはボランティアを始めようとしていますが、やればやるほど“やらねばならないこと”が増えていくと思います。最初は見えなかった課題がだんだん見えてくるからです。ボランティアをしている方々が、掛け持ちで色々なボランティアに携わっているのはそんなわけです。

 ただ、気持ちはいっぱいあっても身体はひとつです。ボランティアでの課題もそうですが、日本であれ外国であれ災害などの報道に接するたびに、思いはあっても何も出来ないでいる自分に対して歯噛みする人も少なくないと思います。

 では、ここでの課題を残して飛んでいくわけにはいかない私(たち)に出来ることは何でしょう。そんなとき思うのは、先ほど紹介した、アジア・アフリカなど「南」の国々の草の根の人びとからのメッセージです。ボランティアをしていく中で(社会的に)納得しかねることに行き当たったら、慈善にとどまることなく公正の実現に向けて「異議申し立て」をすることが、個々の現場に出向くことが出来ない私たちにも成し得ることだと思います。そしてそれは、私たちにしか成し得ないことなのです。自分たちのいる場を変えることができるのは、主権者である私たちなのですから。

 ・・・という思いはあるけれど、核心を付いた問い掛けがあったら応える用意はあるぞという心の準備に留め置いて、次の章に移ったのでありました。


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