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父の残したもの

1999/11/11 掲載

(2001/07/24 レイアウト変更)

埼玉県 嶋崎とし子

 1990年8月、私は、病室で人口呼吸器と心電計につながれて3ケ月も眠り続けている父のそばに付き添っていました。とは言っても車椅子の身であるため、お医者さんや看護婦さんたちの邪魔にならないようにするのが精一杯でした。

 父が脳内出血で倒れたのは、5月16日、私の結婚式まであとわずか2週間という時でした。倒れる数日前、私が静岡の家に電話をした時のことです。叔父さんが来ていて賑やかな雰囲気が電話器から伝わってきました。母と叔父さんの後、父が電話に出ました。自分から私の電話に出たがるなんて、何と珍しいことでしょう。父は大層上機嫌で、いきなり、

「とし子さん、結婚おめでとう!
 この辺じゃあ長女が結婚する時は近所の衆に
 お披露目をすることになっているだけーが、どうするだね」とのこと。
「何言ってるだか。あんたばっかり呑気でいいねェ」

はしゃいだ父の声に少しとまどって、そんな言葉を返しただけでした。私の障害のために、彼のご両親に賛成していただけないままでの式の準備中だったのです。これが父と交わした最後の会話になろうとは、思ってもいませんでした。

 私は病気と闘っている父のそばで、必死に神さまに祈りました。

「このまま父を召さないで下さい。
 私は父に謝らなければならないことがあります。
 もう一度だけ話をさせて下さい」と。

 自分が楽になりたい一心のエゴ丸出しの祈りでした。私は祈りながら、ひとつの出来事を思い出していました。

 あれは20年前の夏。大勢で万博に行った時のこと。私は小学校六年生、父は42歳でした。遠い昔のことで、全てがおぼろげな記憶の中、ある光景だけが脳裏に焼きついています。ロープを張られた長い行列。歩き疲れて「あとどのくらい?」とこぼし始める私と弟。ロープの外を歩く係の人に何やら話しかける父。ロープをくぐって列から外れ、係の人について行く私たち。まるでスライド映写でも見ているような記憶です。私は「せっかく並んだのにもったいない。どこへ行くんだろう」と思いながら進みました。父が会場の入口で何か見せると、私たちはすぐに中へ入ることができました。後で父に理由を尋ねると、「お父ちゃんは社長で偉いもんで先に入れてくれただよ」との返事でした。私は当時、子ども独特の潔癖さと正義感を持っていましたので、これは大変なショックでした。父は平凡なおもちゃ屋のおじさん≠ナしたが、私は父は偉いと思っていましたから、それを利用して自分だけ楽をするなんて卑怯だと思い、自分もその共犯者になったと思うと恥ずかしくてなりませんでした。それ以来、父のもっともらしい全てに嫌気がさし、何年もの間私は父を軽蔑し、無視し続けることになったのです。

 これが大きな誤解だったなんて、私は長いこと気付きもしませんでした。7〜8年前、友人ご夫婦と初めてディズニーランドに行った時のこと。どのアトラクションでも車椅子姿の私は専用通路から優先して入れてもらえました。私は「よく行き届いているナ。ラッキー」と喜んでそのシステムを利用しました。父のそばで20年前の万博の事を思い出しながら心の中で問いかけました。「お父ちゃん、何であんな嘘ついたの? あの時見せたのは身体障害者手帳じゃなかったの?」本当のことを説明できなかった父の心と、自分の過ちを思うと胸が締め付けられるような思いでした。

 父が進行性筋ジストロフィー症による障害者だと知ったのは高校生の時です。私にとってずっと父は普通の人でした。ただ歩くのや動作が遅いだけの普通の人でした。父は何でも自分でしましたし、本人も家族もそれを当たり前としていました。我が家は大家族でいろいろな人がいましたから、父は特別な障害者ではなく、そのいろいろな人の一人だったのです。

不自由な心

 父の病気を知ったということは、つまり、自分の病気を知り、それが父から来たものであることを知ったということです。私は万博の後から、何カ月かに一度、東京から来る医師に会うためにS病院まで行きました。しかし通う理由は知らず、一人で様々な事を思い巡らせていました。やっと病名を聞きかじり、百科事典で調べた時に受けたショックは、言葉で説明できるものではありませんでした。原因不明、進行する、遺伝する、治療法なし等の言葉が頭に刻み付けられました。私の中から希望という言葉が消えて行きました。「何故父は結婚なんかしたんだ、何故私なんだ、私の病気は父のせいなのか、じゃあ父の病気は誰のせいなのだ、なぜ父なんだ」と次々に沸き上がる思い。そしてそれは次第に「自分は何故生まれてきたのか、何のために生きているのか、どう生きたらいいのか」という「生きること」に対する疑問へと膨らんでいきました。父に対する様々な思いは、全て心の水面下で起こったことで(態度には出たでしょうが)それを父に直接ぶつけたことは一度もありませんでした。

 母は私を兄や弟と全く同じように育ててくれましたので、私は、プライドや向上心やライバル意識や、人を好きになる気持ちや、人の役に立ちたいという気持ちや、将来への夢等も、全部人並みに持ち合わせていました。友達ともよく遊んだし、クラブ活動にも熱中しました。そんなごく普通の私が、自分の病気を認め、受け入れる術(すべ)など知るはずもありません。日常生活に少しずつ不自由が生じ始めても、人に手助けを求めることが素直にできませんでした。自分の動作が人と違うことも気になり始め、人にみっともないところや弱い面は見せたくないと思っていました。また、その時の自分を以前の自分や周囲の人たちと比較しては悲観していました。特に人が私の為に時間や労力をさくことは耐え難いことで、相手が誰でも迷惑や負担をかけるのはいやでした。高校生の頃、重い鞄を持ってのバスの乗降が困難になりました。朝は母が鞄をバスに上げてくれ、いつも同じバスに乗る友人が降ろしてくれました。帰りは仲良しの友人が助けてくれました。ある日その友人と喧嘩をした時、どうしても手を借りるのが厭で、一人でタクシーに乗り、クルクル変わるメーターを見てドキドキしながら家まで帰ったことがありました。私はこの時、自分が人と対等ではないと痛感しました。今思えば、その頃の体の不自由さなんてほんのちょっとしたことでしたのに、最も心の不自由な時期だったのだと思います。

 私はその不自由な心のまま高校を卒業し、埼玉にあるJ大学に進学しました。静岡の家を離れての一人暮らしを開始したのです。

 当初、私の志望はJ大学ではありませんでした。高校の時、化学の実験でアスピリンを作ったことがありました。たかが下熱剤といえども自分の手で薬の生成を体験した感激で、暫く興奮し続けていました。当時、自分の病気を憎み否定しきっていた私は、「薬学部に進んで勉強して、いつか薬を発明して病気を治すんだ」という大それた目標を持ったのです。薬科大の入試では、当日に特別面接があり、一人呼ばれて大きな広口ビンにたっぷり入った水を別のビンに移す作業をさせられました。うまくできませんでした。試験監督いわく「もしこれが硫酸だったらどうしますか?……」学力云々以前にすでに問題外であった様です。次に担任に勧められて行った栄養士養成の専門学校では、調理室で、たっぷり水の入った大きな鍋を持つよう指示されました。不安定な持ち方に対していわく「もしこれが煮えたぎる熱湯だったらどうしますか?……」栄養士等の各種の資格もとれるJ大学では「うちは大学ですから資格だけにかかわらず、いろんな可能性を追求できると思います」と入学を許可されました。J大学も理科系で、前者と同じような実験、実習もあるにもかかわらず、私の中にさえも可能性を見出して下さったのです。しかし当時の私には、自分の可能性も学ぶ目標も見えませんでした。

変わっていく私

 大学の担任に勧められて大学院に進学しました。学部では、栄養士の資格はとれたものの、自分の自信につながるものを何も見出せなかったのです。贅沢な話でしたが、両親は援助し続けてくれました。私にとってこの2年間は、研究の基礎やコンピューターを学べた有意義な時であったことは言うまでもありませんが、他にも多くの意味で生きる力をつける重要な時となりました。

 お世話になっていた医師の紹介で、同病の人たちの全国組織の団体に入会しました。まるで一匹狼の悲劇のヒロインのような精神構造をしていた私には、ショックなことばかりでした。父や自分のことは棚に上げて、生まれて初めて障害者に会ったといった感覚でしょうか。いろいろな方に会いました。皆それぞれに明るく、逞しく、前向きな生き方をしていて驚くばかりでした。また、この病気を自分の問題としてだけでなく、皆の問題、次世代の問題としてとらえ、様々な働きかけや運動を起こして行こうとするパワーには圧倒されるばかりでした。障害者というレッテルだけは貼られたくないと思っていた私に、初めて新しい物の見方が芽生えたのでした。

 この会で知り会ったある人々の強い影響を受けて、キリスト教会へ行くようになったのもこの頃です。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉は、私に大きな衝撃を与えました。まず前提になっている「自分を愛するように……」という言葉。私は自分がかわいいからいつも自分をかばい、守り、正当化しようとします。でも自分を愛していると言えるでしょうか。ずっと長いこと自分の病気を否定し、自分自身を否定し、本当はこんなはずじゃない、こんなことは望んでいない、と思い続けていたように思います。聖書はそんな私に向かって、私がありのままで神に愛されている者であること、どんな人でも神の業を現わす器となれること、そしてありのままの自分を愛しなさい、と語り続けているようでした。私は初めて、現実を受け止めてみようと思いました。障害を克服したとか乗り越えたというのではなく、この難病の原因がわかり治療法が確立されるまで、この障害と付き合っていこうと思えるようになったのです。自分を受け入れられて初めて人の愛も素直に受け入れられるようになり、自分の力だけで生きているのではないこと、一人ではないことを実感しました。

 教会に通うのに、最初の一年は教会の方が駅まで送り迎えをして下さいましたが、やはり自分の足で教会に通いたいと思い、車の免許をとることにしました。同病の仲間の紹介で障害者専用の教習所に行きました。警察で適性検査をしたところ、ハンドルを回す力が弱いことが理由で不合格になりましたが、仲間に励まされ、ハンドル回しだけを何度も練習してやっと合格することができました。教習所が遠かったため通うだけでも大変で、何度もくじけそうになりましたが、今は車の免許を持つことができて本当に幸せに思います。人の手を借りる一方だった私が、初めて人を車で送って喜ばれた時は、天にも昇る様な思いでした。周りの人の励ましと協力により、もう一つ自分の世界を広げることができたのです。

自立

 病気が進行するということはすなわち、機能を失い続けるということです。いつも崖っ淵にいるようで不安でなりません。そんな私を支えてくれたのは、聖書にある「試練と同時にのがれる道も備えて下さる」という約束でした。大学院を出てから2年間は、研究室でアルバイトをしながら、週に2〜3回品川まで栄養指導の仕事にも出かけました。動いている電車の中では、歩いたり立ったり座ったりもできないので、ずっとコーナーにしがみついて立ったままの往復でした。階段の昇り降りは辛いというよりは恐ろしく、昇降客の動きの激しい時は手すりにつかまって息を止めるようにして人の波が収まるのを待ちました。悪天候の時は特に責任を果たすことの厳しさを痛感しました。移動だけでクタクタでしたが、その分大勢の親切な人たちにも出会いました。人が温かいということを身をもって学んだ良い経験でした。今はもう一人では電車に乗ることもできません。明らかに少しずつ変わっています。生活の中で、危険なこと、自信を無くすこと、情けなくなることもたくさんあります。でも今言えることは、いつも「のがれる道があった」ということです。失うものに執着するより、その分工夫して新しい道を切り開こうと思います。

 2年のアルバイト期間の後、私は正式に大学の職員になり、研究室の助手として勤務することができました。しかし正式にとは言っても、毎年毎年健康状態を見て、上司の承認により契約を更新するという契約方法でした。当時の理事の一人と面接をした時「あなたの場合、もし長く働けたとしてもずっと嘱託のままです」自分を一人前だと思わないように、と言わんばかりのお話に「私のような障害者とともに学ぶことは、学生さんたちにとっても意味があることではないでしょうか」と勇気と祈りを持って答えました。しかしそれに対して「学生さんはお客さんなんだから、手伝わせたり助けてもらおうなどとは思わないように……」とお叱りを受けました。後で知ったのですが、賞与も他の職員の半分でした。同じ大学に長くいながら9年目にしてこんな形で「ああ、社会に出たんだな」と実感した訳です。

 助手になって、研究やコンピューター実習や様々な研究室実務や卒業研究性の指導等、私なりにこなしてきました。大変なことも多かったのですが、仕事が好きでした。私は、自分に足りない部分を挙げられたら何の反論もできません。しかしM先生は私にできる事の方に目を向けて下さり、私の足りないところは同僚や学生さんが助けてくれました。5年目にはM先生と共著でコンピューター実習用の教科書を出版することもできました。私が担当する学生実習の時には必ず最初に自己紹介をします。自分の病気のことを話し、どんな場面でどんな助けが必要かを説明します。面接で理事に伝えた気持ちは変わっていません。私がいろいろな方と接して成長できたように、私も学生さんたちの人生の中での一粒の刺激剤、栄養剤になれればいいな、と思っています。

 私は、結婚を期に退職して、元の非常勤助手というアルバイトの身に戻りました。契約更新は成りませんでした。

新しい人生

 1989年大晦日。主人が結婚の申し込みに私の実家を訪れた時のことです。まだ会って間もないというのに、私と母が席をはずした隙に、父と主人とは密談を成立させていました。私と母には事後報告。年も明けた元旦の朝、年頭の挨拶の席で何と父がまたまた爆弾発言。

「此々然々……という訳で、
 これからは家族の一員だと思って仲良くして下さい」

何という強引な展開でしょう。私の結婚問題について頭を悩ませていた母は驚いて、すぐ後で、

「お受けしたって言ったって、一体嶋ちゃんのことどれだけ知ってるだね。
 あちらのご両親が何ておっしゃってるか、ちゃんと聞いただかね」

と父を問いつめたそうです。母は私と同じように、本当に望んで良いことなのかと不安だったのだと思います。案の定、主人のご両親は大反対でした。私も母も、先方がおっしゃる事は全てもっともなことだとただ胸が痛むばかりでした。しかし私は主人を信じて付いて行く決断をしていましたし、母も娘の思う通りにさせたいと心に決めていたようでした。これは後から聞いたことですが、父は最初に主人に私の病気のことを話して、それでも良いのかと聞いたそうです。主人は、

「障害者であるとし子と出会ったのではなくて、
 出会ったとし子がたまたま障害者だっただけ。
 もしそれが支障になることであれば自分たちは
 初めから出会わなかっただろう」

と答えたそうです。父は主人に出会った時、その人柄と信念に全てを賭けたのだと思います。(まるで、自分に残された時間を知るかのように……)

 私たちは、父が倒れて結婚式を中止したまま、主人のご両親に隠れるように結婚しました。そのまま黙って引越し、音信不通の不義理をしてしまいましたが、父が亡くなったことを連絡すると、ご両親は遠い九州からお葬式に来て下さいました。勝手をして顔向けできないような気持ちでしたが、同時に感謝の気持ちでいっぱいでした。父が、切れた糸をもう一度つないでくれたようにも思えました。

父の残したもの

 父危篤の電話があったのは、倒れてから4カ月たった9月13日でした。主人と二人駆け付けましたが臨終に間に合いませんでした。父が家に帰ったのは、父の大好きだった地元のお船祭りの初日の朝でした。

「お祭りに帰って来たかったのかねェ」と言いながら聞くお囃の音は、生まれて初めて聞くような悲しい音でした。

 私はついに父に謝ることも、お礼をいうこともできませんでした。私 は父と同じ病気でありながら、その事について一度も語り合ったことはありませんでした。父はどうやって自分の身に起こったことを受け止めたのでしょう。父は何故、いつもあんなに平和な顔をしていられたのでしょう……。

 父が倒れてから経理を引き継いでいる従兄が、手に一枚の紙切れを持って弔問に来ました。

「とし子、これおじちゃんの帳面の端に書いてあったから写してきたよ」と。

そこには、

「憂きことの 尚この上に積れかし 限りある身の 力ためさん」

とありました。誰かの歌に共鳴して書き止めたのでしょう。私は初めて見たことのない父の一面、父の心の奥底にあるものを見たような気がして、切なくて声をあげて泣きました。

 私も自分の家庭をもつことができました。これから歩む道が父を理解する道なんだと思います。父は、一人の人として対等に付き合いぬいてくれた母と出会って幸せだったと思います。そして私も、母によく似た主人に、ありのままの姿で愛されて幸せに思います。もし神さまが、父と母にそうしたように、いつか私たちに新しい命を委ねて下さることがあれば、父と母がそうしたように、全力で受け止めていこうと今は思っています。

「お父ちゃん、
 結婚一周年目に念願の式を挙げたんだよ。見ててくれた?
 嶋ちゃんの所へ向かう時、私、頑張って自分の足で歩いたんだよ。
 皆がハラハラしたみたいだけど、何とか辿り着きました。
 全然気付かなかったけど、OさんとIさんがずっと、
 ドレスの裾を踏んで転ぶことのない様に付いててくれたんだって。
 前に着いたとたんバランス崩しちゃったけど、
 嶋ちゃんと牧師先生とお兄ちゃんが支えてくれたから大丈夫でした。
 たった5メートルくらいの距離だったけど、
 何だか人生を象徴しているみたいだね。
 これからも勇気を持って歩んで行くよ。
 そうそう、嶋ちゃんのお父さんがね、
 『とし子さんはもう私らの娘だから、
  何かあったらいつでも言ってきなさい』って。
 本当に嬉しかった……。
 お父ちゃん、やさしい娘じゃなかった事、ごめんね。
 そして、命をありがとう」

父の残したもの……それは……私自身の人生……。


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